天空「bitter ~ちょっぴりほろ苦い、酸いも甘いも意のままな大人のbitter~」
「次は、……アカデミー裏か」
スケジュール帳を確認し、イルカはひとつため息を吐いた。
足が重い。
目の端を過ぎる商店街のディスプレイは茶色一色に染まり、木の葉大通りには甘い香りが溢れる。
有線で流れているのは浮かれた恋の歌ばかり。
今日は一年で一番――下らない日だ。
「ようイルカ、今年も大変だな!」
通りすがった同僚が、笑顔でイルカの肩を叩く。
もう片方の手は傍らにいる愛らしい女性と、恋人繋ぎで繋がれている。
にこり、とイルカは顔に愛想笑いを浮かべた。
「うん、でも、有り難いことだから」
「そう思ってるんなら、そろそろお前も誰か選べよ」
「……」
イルカが無言で少し引く気配を見せると、
「ああ、悪い。余計なことを」
と、空気を読むことに長けた受付の同僚は、気まずそうに頬を掻いた。
「いや、俺の方こそ。デートだろ、楽しんで来いよ!」
「おう!」
寄り添い合う恋人たちは、楽しそうにイルカから離れて、浮かれた雑踏に溶け込んでいく。
――そういえばアイツに恋人ができたのは、去年の今日だったか。
バレンタインディ。
片思いの相手に、チョコレートを渡して告白する日。
そんな奇妙な異国の習慣は、すっかり木の葉に根付いたようだ。
木の葉崩しで沈んだ里の空気の中で、みな新しく楽しい何かを求めていたのだろう。
……迷惑を被ったのは、きっとイルカだけだ。
一人になった途端、またポトリとため息が口から零れ落ちる。
――俺が、今までどれだけ努力して……。
思っても栓ないことを脳内で繰り返す度に、どんよりと心が曇る。
舌打ちでもしたい気分だ。
アカデミーにしろ受付にしろ、広く里の忍たちと顔を合わせる仕事だ。
決して狭くはないが密なコミュニティの中で、惚れたの腫れたのとゴタゴタするのは御免だった。
だからイルカは慎重に慎重に、身の回りに防衛線を引いてきたのに。
里にとって初めてのバレンタインディ。
背中を押す切っ掛けがあれば、いとも容易くその壁が破られてしまうのだとイルカは嫌と言うほど思い知らされた。
久々に顔を見せた同級生やその連れ。
アカデミー生の親から紹介を受けたという、親類縁者を名乗る人々。
受付でよくイルカの列に並ぶ忍達。
そして職場の同僚の友達。
次から次に舞い込むイルカを呼び出す式に、スケジュールを調整するだけで精いっぱいだった。
イルカの前に積み上げられるのは値段や大きさの差こそあれ、すべてが気持ちの籠った本命チョコで。
――……重い。
まるで今までの負債が利子つきで返ってきたかのような煌びやかな箱の山を、イルカはどんよりと見つめた。
「まあ、お前は安全牌だからな。給料定額制だし、子供の扱いにも長けてるし、ほとんど任務に出ずに里に居るから死ぬ確率も少ないし。二目と見られないほど醜くもないし、極端に太っても痩せてもいないし。なにより――人畜無害そうだしな」
と笑う同僚の評価は的を射ていて、イルカは笑うことすらできなかった。
是非もない。
周囲からそういう風に見えるよう、自分を仕立ててきたのは自分なのだから。
真面目でお人好し、だけど面白味がなく、付き合うには刺激が足りない。
恋愛対象にならないイイヒトであろうとしたそれがまさか、結婚適齢期に突然のモテ期を運んでこようとは思わなかったのだ。
「ま、お前もいい歳だし、中から誰か選んでお付き合いしてみればいいんじゃねぇの?」
からかい交じりの同僚に、イルカはようやく力なく笑い返した。
――いらないんだよ、そういうのは。
独りでいい。
いや、独りがいい。
特別なものなんていらない。今がずっと続いてくれれば、それで十分だ。
平穏な生活を守る為、まずは角の立たない断り文句を考えなければならない。
イルカは暗澹たる気分で、プレゼントボックスの山に目を遣った。
散々だったバレンタイン初年度の記憶を脳裏に浮かべながら、アカデミー裏に辿り着く。
そこでイルカを待っていたのは、最近よく目が合うな、と感じていた下忍の女性だった。
「わ、私と是非、結婚を前提としたお付き合いを!」
必死の形相で彼女が差し出した箱を、イルカはやんわりと押し返す。
チョコレートは最初から受け取らないことにした。その方が断りやすいし、お返し用の出費だって抑えられる。
あれから三年経って、イルカもそれなりの対処法は編み出しているのだ。
「お気持ちは嬉しいんですが、……ごめんなさい」
眉を下げ、困ったような表情を作って彼女に笑いかける。
大体の相手は、ここでイルカの顔から勝手に何かを読み取って、引く。
「な、なんでダメなんですか!? お付き合いしてる方、居ないんですよね?」
だが時々こうして、引かない手合いがいる。
面倒だな、と表情に乗せないまま、イルカは心の中で眉を顰める。
ダメなもんはダメなんだと言ってしまえたら、どれだけ楽だろう。
だが彼女とは、これから先も受付で顔を合わせるのだ。なんとか丸く収めなければ。
「……俺、好きな人がいるんです」
そういう場合は、これが一番効く。
だがそれでも。
「そ、その人より好きになって貰えるように努力します! ……私、うみのさんの好みの女性になれるように頑張りますから!」
引かない人間は、一定数居る。
お試しだけでもと更に箱を手に押し込んでくる女の、九十度に下げられたままの頭頂部。
それを見る目に一瞬乗ってしまった煩わしさを、気づかれぬようイルカはするりと押し隠した。
もううんざりだ面倒臭ぇと叫ぶ心にも蓋をする。
「すみません、無理です。誰も代わりになれないんです。――その人は」
死んだのだ、とイルカは続けようとした。
もういない彼女への想いに一生殉ずるつもりなのだ、と言えば、大なり小なり身近な者の死を経験している木の葉の人間なら、百パーセント間違いなく身を引く。
だが。
ひゅ、と風が走る音と共に、身体が浮いた。
「イルカせんせ、やっと見つけた」
ぽかん、と下忍の彼女が、木の上のイルカとカカシを見上げている。
「……なん、ですか?」
思考が追い付かないまま瞬いたイルカに、カカシが至近距離で苦笑を浮かべる。
「アナタがあんまり捕まらないから、攫いに来ました」
「は?」
「アナタ今日、随分あっちこっち飛び回ってるんだーね」
無駄足なのに、と切り捨てるような言い草が、ぐさりとイルカの胸に刺さる。
イルカをアカデミーの樹上に軽々と運搬した上忍は、未だに足元でこちらを見上げる女に向かって、野良犬でも追い払うようにしっしと手を振る。
「アンタはきっぱり振られたんデショ。もうおウチに帰りなさい」
「そ、そんな。うみのさんはそんなこと」
「無理、……ってこれ以上ない断り文句だと思うけど。それともアンタ、イルカ先生から罵倒されたいの? ――無理。イヤ。しつこい。面倒臭い。これだけやんわり断ってるんだから、いい加減空気読め。マジ有り得ない」
カカシが言葉を重ねるたびに、木の下に佇む女の目に涙が盛り上がる。
イルカの心中をそのまま代弁する声が彼女の顔を歪ませるごとに、胸の奥にじくじくした痛みが蓄積していく。
――傷つけたいわけじゃないのに。だから俺は、ちゃんと、遠回しに断ってるのに。
カカシの言葉に傷つきゆく彼女に、ざまあみろ、と思う心を止められない。
ここまで言わせるアンタが悪いんだ、と相手を責める気持ちを消すことができない。
イルカが言いたくても言えなかったことを易々と口にするカカシに爽快を感じてしまう自分が――堪らなく嫌だ。
チッと小さくカカシが舌打ちした。
「――そんな優しさ、たかが上っ面の顔見知り程度が期待するんじゃなーいよ」
低い低い声で言い捨てて、カカシが女を睥睨する。
予想外の言葉に、イルカは呆然と目を見開いた。
――優しさ? 優しさって言ったか、今。
ぎゅっと抱き寄せられた腕の温もりに、胸の痛みが和らぐような気がして息を飲む。
「チョット本気出されたくらいで泣くような中途半端な覚悟で、――これ以上、この人に付け込まないで」
カカシの言葉に横面を叩かれたような表情を浮かべた女は、逃げるようにくるりと踵を返して走り去る。
ふん、と満足げに鼻を鳴らしたカカシに瞬身を切られ、イルカの足元がまたくらりと揺れた。
目の前に突然、木の葉の里の風景が広がる。
二人が現れたのは火影岩の上だ。しかもこの位置は……三代目、猿飛ヒルゼンの顔岩だろう。
かなりの高低差を移動したにも関わらず、あまり浮遊感が無かったのは、カカシの術の精度のお蔭だろう。
見せつけられた高い技能に、内心イルカは舌を巻く。
「あの」
ところで。
「何か御用ですか?」
有無を言わさず自分をここに連れてきた上忍を伺うが、ほとんど布で隠れた表情はいつも通り飄々としていて、感情の取っ掛かりすら掴めない。
「俺、次の予定があるんですけど……」
胸ポケットからスケジュール帳を取り出そうとしたイルカの手を、カカシの右手が掴み止める。
「行かなくていーよ」
「は?」
「だって、どうせアナタ断りに行くんデショ? なら一番わかりやすいのは、約束をすっぽかすことですヨ」
「でも、そんな訳には」
「連絡なしでドタキャンするのが気に入らないなら、暗部の後輩でも伝書鳩代わりに走らせマスよ。だから――ね、もうイイの」
胸元から上がってきたカカシの手が、イルカの輪郭をなぞるように頬を滑った。
妙に優しい指先に、ぞわぞわと背を悪寒が這い上がる。
「行かないで」
「――……っ」
命ずるような低い声に、思わず身体が硬直した。
こくり、と固唾を飲んで、イルカはその強張りを解そうとした。
「……あの」
「用事。うん、用事ね」
ひたり、ともう片方の手もイルカの頬に添え、カカシがイルカを覗き込む。
カカシの嵌めた手甲の皮は冷え切って、薄氷でも押し付けられたように肌を刺す。
――怖い。
初めて、イルカはカカシを怖いと思った。
中忍選抜試験前の会議でカカシと相対した時も、こんな恐ろしさは無かったのに。
戦忍をしていた頃ならいざ知らず、木の葉の里内ではついぞ感じたことのない――魂に爪を立てられたような、骨髄を深々と冷やすような原始的な恐怖に、本能が早く逃げろと警鐘を鳴らす。
身を引こうとしたイルカより一瞬早く、カカシの掌がぐっとイルカの顔を固定した。
こちらをぬるりと覗き込むカカシの顔の中で、見えているのは青黒い片目だけ。
凪いで、冷えて、まるでガラス玉のように硬質なその瞳の表面に、怯えた表情の自分が映り込んでいる。
「こんな日に、血眼になってアナタを探してる理由なんて、一つしかないデショ? 愛を告白しに来たんデスよ」
びょう、と二人の間を凍った風が行き過ぎた。
――アンタもか。
落胆に、イルカの肩がガクリと落ちる。
いつも受付で優しく迎えてくれる笑顔が好きだ。癒される。一緒に居て欲しい。
チョコを片手に照れながら、そんな言葉でイルカを口説きに掛かってきた男の戦忍も、今まで幾人か相手にしてきた。
下らない。
――アンタだけは、違うと思ってたのに。
所詮ナルトを通じて言葉を交わすだけの間柄だ。会議での諍いの後は、雑談すらしなくなって久しい。
そんなカカシのことを――この人だけは他の人とは違うのだと、どこかで信じ込んでいたらしい。
――馬鹿だな。俺がカカシさんの何を知ってるっていうんだ。
そしてカカシもイルカのことを何一つ知らないのだ。だからこんな馬鹿なことを言いだす。
「その、お気持ちは嬉しいんですが」
「嘘」
「俺、他に好きな人が」
「嘘」
「――……亡くなった彼女への想いに殉じようと思って」
「はい、それも嘘」
ワンパターンだね、とカカシが肩を竦める。
「告白されたって、アナタちっとも嬉しそうじゃないじゃない。仕事に個人的な感情持ち込まれるの、正直迷惑なんでしょう? なーにが、お気持ちは嬉しいんですが、ヨ」
呆れたように白い息を吐き出しながら、カカシがすうと目を細めた。
蔑みを隠しもしない眼差しに、頭にかっと血が上る。
「……っ! 仕方、ないじゃないですかっ!」
――他にどうしろって言うんだ!
対応が平等になるよう、なるべく色を滲ませないよう、相手に恋心を抱かせないようにイルカだって日々気を張って頑張っているのだ。
なのに寄ってくる。わらわらと寄ってくる。
ただ暖かい子供たちからの好意とは種類の違う、どろりとした欲を滲ませて。
癒されたいと。優しくしてほしいと。
どいつもこいつも幸せを求めて、都合よくイルカを毟ろうとするのだ。
――同じものをくれるなら、俺じゃなくても良い癖に。
駄菓子でも買うように、気軽に手を伸ばされては堪らない。
怒りを込めてぎりりと睨みつけると、何故かカカシはふ、と表情を緩めた。
目尻がとろりと溶けて、山の端のようななだらかな稜線を形作る。
「その顔、――……イイね」
イルカの耳元に寄せられた唇から、濃度の高い蜜の様なカカシの声が這入りこむ。
きいん、と頭のてっぺんが割れるように痛んだ。
煮詰まったそれは甘さを通り越して、もはや只の刺激だ。
「好きな人も居ないデショ。だって――」
すっと身を寄せてきた男が、イルカの首筋ですんと鼻を鳴らした。
僅かな空気の動きすら、張りつめた身体は敏感に拾ってしまう。
「アナタから、恋してる匂いなんて、ひとつもしない」
びりびりと脳が痺れる。
詰まった息が喉元で絡まって、イルカの肺を押さえつけた。
「匂いで、なんて……っ」
「わかるよ。――オレは、アナタが好きだから」
断ずる声に、心が悲鳴を上げる。
わからない癖に。知らない癖に。
――だから呑気に俺のこと、好きだとか言えるんだ……っ
どん、と背中に土壁が当たった。
知らず知らずに気圧されて、下がってしまっていたらしい。
壁際にイルカを追い詰めた上忍は、イルカから手を離すと、――すう、と指先で己の口布を引き下げた。
恐ろしく通った鼻筋と、形の良い唇が露わになる。
「オレを振る気なら、そんな言い訳じゃなくて、――アナタの本音で拒みなさいよ」
言葉を紡ぐたびに、カカシの口元の黒子がひらひらと動く。
「本気で拒絶して、本音で罵倒して、立ち直れなくなるまで打ちのめして。じゃなきゃ、オレは止まりませんからね?」
嬉しそうに、楽しそうに、カカシの唇が鋭角に吊り上がる。
胴がぶるりと震えた。
目を逸らしたいのに、視線をカカシから引き剥がすことが出来ない。
まるで性質の悪い術にでも掛ったかのようだ。
「アナタが一生隠しておきたい汚い部分を余す所無く曝け出して、心に浮かんだ口にするのも悍ましいほど酷い言葉を残らず全部吐き出して」
この唇で、とカカシの冷えた指先が、つうとイルカの薄い皮膚をなぞった。
「オレのためだけに血を流してよ、イルカ先生。――どうせ振られるなら、オレはアナタに一生消えない傷を刻みたい」
イルカは絶句した。
――そんな優しさ、たかが上っ面の顔見知り程度が期待するんじゃなーいよ。
先ほどのカカシの言葉が、脳裏に蘇る。
「……っ」
がくがくと膝が笑いだす。
我知らずぶるぶると首を横に振ったイルカを閉じ込めるように、顔の両脇にカカシがどんと手をついた。
「これ以上アナタが、アナタの上っ面しか見てない連中の為に磨り減るのは耐えられないの。――もう一ミリだって、ううん、アナタの心の削りカスすら他の奴らに渡したくない」
「……なに、言って……」
「どうでもいい相手の為にわざわざ心砕いて、時間費やして、無駄足踏んで。アナタ、ホント馬鹿だーね」
あんな奴らほっとけばいいのに、と、カカシが唇を吊り上げて嗤う。
息が苦しい。
「きちんと恋心を終わらせて、だけど悪い思い出にならないように気を遣って、次の恋に踏み出せるように勇気まで添えて。アナタにそこまでしなきゃいけない義理はどこにもないのに、――ねえ」
ぐっとカカシがイルカに身を寄せる。
カカシの影にすっぽり包まれて、イルカの周囲が急に薄暗くなる。
「――そんなに誰かに嫌われるのが怖い?」
獲物を甚振るような声に、じわりと目じりが潤んだ。
喉奥に詰まった息が、今度はしゃっくりのように振動し始める。
揺れるイルカの喉元に、カカシの白い指がそっと触れた。――まるでよく研いだ苦無の切っ先を突きつけるように。
怖い。
怖い。
身体が小刻みに震えはじめた。
きんと冷えた二月の空気が、イルカをがちりと凍てつかせる。
「イルカせんせ、アナタはみんなからイイヒトだと思われたい癖に、それ以上の好意を持たれるのを頑なに拒んでる。波風を立てないよう、目立たないよう、ひたすら中庸であろうとしてる。嫌われたくないから。捨てられたくないから。一人になりたくないから。――そうデショ?」
ひう、と震えた喉から嗚咽が零れ出して、イルカの口元を白く覆った。
色を無くしたイルカの顔を、この上なく嬉しそうに笑うカカシがうっとりと眺めている。
「愛だの恋だのそんな甘っちょろいモノ、アナタはひとつも信じていない。だって恋には終わりがあるから、愛には別れがあるから。だからアナタは特別なものを持たないことに決めた。一度手に入れたものが自分から離れていくなんて、許せないから。――そうデショ?」
カカシは暴かれたくないイルカの心の澱を、丁寧に一つづつ並べてイルカの鼻先に突き付ける。
そしてその魚の腑のような悪臭をむしろ極上のごちそうだと言わんばかりに、愉悦を顔に浮かべて舌なめずりをしてみせる。
ぞっと背筋に震えが走り、ぐらりとイルカの足場が揺らいだ。
「アナタは矮小で卑怯な臆病者だ。――ねえ、そうデショ?」
「……な、んで……」
そんな酷いことを言うのだ。イルカを好きだと言ったその口で。
まるでイルカを甚振るのが至上の喜びですと言わんばかりに嗤って。
交錯する感情は、怒りも悲しみも憤りも全て綯交ぜのまま心の中で渦を巻く。
立ち直れないほど打ちのめしてと甘い声でイルカに強請っておいて、滅多打ちにされたのはイルカの方だ。
思わず下唇を噛み締める。嗚咽が口先で詰まって、ふぐう、と変な音を立てた。
イルカの様子に、にい、とカカシが唇を吊り上げる。
「――オレは、そんなアナタが欲しくて欲しくて堪らないの」
「……は?」
わんわんとカカシの声が、耳鳴りと混ざり合って脳内で反響する。
聞き間違いかと首を傾げたイルカに、カカシが更に畳み掛ける。
「優しくて暖かくて癒される、――なんて、そんな上っ面だけの甘ーいアナタは要らないの。だってアナタ、ホントはギラついてて、切羽詰まってて、欲しがりで我儘で傍若無人で、……かなり強烈なヒトだよネ」
くつくつと肩を揺らしてカカシが嗤う。
「永遠が手に入らないならいっそ何も要らない、なんて。――潔いを通り越してむしろ傲慢だーよ」
羞恥に頬が染まる。
好きだと言う割に、先ほどからカカシの口から出てくるのはイルカを蔑む言葉ばかりだ。
なのに。――胸の奥からほこほこと沸くこれは、歓喜、ではないだろうか。
ぞくっと背を走った震えは、苦みの奥にごく幽かな官能を孕んでいる気がした。
――怖い。
くらくらと足場が揺れる。
脳が警鐘を鳴らし、本能が逃げろ逃げろと告げている。
「……逃がしませんヨ?」
カカシが軽く、己の額当てを引き上げた。
覗いた瞳の赤に、びくりと心が畏縮する。
写輪眼を使えばイルカの身体の自由を奪うことなど、朝飯前だと言いたいのだろうか。
「……困ったな。せんせ、アナタ――……怯えた顔もかわいーね」
今や隠されている部分が零になったカカシの素顔が、至近距離からイルカを覗き込んでいる。
その整った顔の造作に初めて気づいて、うっかりイルカは目を奪われた。
こくり、とイルカの喉仏が上下したのと、カカシの唇がイルカのそれに重なったのは、ほぼ同時だった。
薄く冷たそうに見えたカカシの唇は予想に反して暖かく、しっとりと滑らかな口解けでとろりとイルカの心を押し包む。
するりと離れた唇の表面を、二月の空気がきんと冷やして。
「……あ……」
名残惜しさに身が震え、――己の気持ちの急激な変化に、イルカは呆然と立ち尽くした。
――……今、俺、何考えて……っ
かああああっと一瞬で朱に染まったイルカの耳元で、嬉しそうにカカシが喉を鳴らす。
「ねえ、イルカせんせ。アナタをオレに頂戴?」
「……そこは普通、付き合って下さいとか言うところじゃ」
――って、何言ってんだ俺!
「んー、まあ、それも間違いじゃナイんだケド」
でもねぇ、と己の発言に思わず顔を伏せたイルカの頭の向こうで、カカシの声がくつくつと揺れる。
「オレはアナタの寂しさに付け込んで心に這入りこんで、アナタの中に空いた穴全てにオレを流し込んで、満たして、でろっでろに甘やかして、オレ無しじゃ生きていけないくらい芯まで蕩かしてやりたいの」
「……ろくでもねぇ……」
「孤独拗らせてるアナタにはお似合いデショ」
とんでもない発言に思わず顔を上げたイルカの目の先で、カカシが小首を傾げてさらりと笑った。
くすぐったそうな、照れくさそうな、妙に爽やかなその笑顔に不覚にも胸がどきりと跳ねる。
「ねぇ、せんせ」
言いながら、カカシが胸ポケットからひらりと板チョコを取り出す。
飾り気も何もない、店売りそのままの、無骨なビターチョコレート。
「アナタをオレに明け渡してよ。頭の先からつま先まで、……隙間も残らないくらい、オレで満たしてあげるから」
指先で器用に包み紙を破り捨て、カカシがぱくりとそれを咥えた。
限りなく黒に近い色味のチョコレートを、口の端でぱきりと折り取る。
瞬間、濃密なカカオの気配が香り立ち、イルカの脳をくらりと揺らした。
「嫌なら本気で拒んで。拒まないなら、――オレごと全部飲みこんで」
言いながら、親鳥が雛に餌でも与えるように、カカシがイルカに顔を寄せた。
チョコを咥えたままひらひらと器用に動くその端正な口元から、薄く淡く白い煙が棚引いている。
先程の余韻が不意に蘇り、じくじくと唇が疼いた。
腫れぼったく熱を持ったそこを思わず舌先で舐めると、カカシがご馳走を前に喉を鳴らすネコのようにニンマリと微笑んだ。
ぞくりと背を走った震えはもう、痺れるほど甘い。
目の前でイルカを待つその唇にはきっと、甘さなんて少しも含まれていないのに。
いつかの会議の壇上で、イルカをすぱりと切り捨てたように。
今日、散々イルカを蔑み弄んだように。
きっとイルカを待っているのは、抜けるような苦みと、傷に沁み入る酸味だけ。
それでも、とろりと蕩ける濃厚な舌触りと、口の中に長く深い余韻を残すその薫香を、――イルカはもう知ってしまった。
「さあ、どうする――イルカせんせ?」
こくり、と一度、呼吸を飲みこんで。
誘われるようにイルカは、差し出された焦げ茶色の塊に唇を寄せた。
終
Q.
ところで、何で火影岩だったんですか?
A.
「このヒトが誰のものか、里の皆に見せつけてやろうと思いマシタ!」
「…………っ!! アンタ、さては馬鹿だな!?」
※拍手は2月いっぱいまで撤去しましたありがとうございました。
スケジュール帳を確認し、イルカはひとつため息を吐いた。
足が重い。
目の端を過ぎる商店街のディスプレイは茶色一色に染まり、木の葉大通りには甘い香りが溢れる。
有線で流れているのは浮かれた恋の歌ばかり。
今日は一年で一番――下らない日だ。
「ようイルカ、今年も大変だな!」
通りすがった同僚が、笑顔でイルカの肩を叩く。
もう片方の手は傍らにいる愛らしい女性と、恋人繋ぎで繋がれている。
にこり、とイルカは顔に愛想笑いを浮かべた。
「うん、でも、有り難いことだから」
「そう思ってるんなら、そろそろお前も誰か選べよ」
「……」
イルカが無言で少し引く気配を見せると、
「ああ、悪い。余計なことを」
と、空気を読むことに長けた受付の同僚は、気まずそうに頬を掻いた。
「いや、俺の方こそ。デートだろ、楽しんで来いよ!」
「おう!」
寄り添い合う恋人たちは、楽しそうにイルカから離れて、浮かれた雑踏に溶け込んでいく。
――そういえばアイツに恋人ができたのは、去年の今日だったか。
バレンタインディ。
片思いの相手に、チョコレートを渡して告白する日。
そんな奇妙な異国の習慣は、すっかり木の葉に根付いたようだ。
木の葉崩しで沈んだ里の空気の中で、みな新しく楽しい何かを求めていたのだろう。
……迷惑を被ったのは、きっとイルカだけだ。
一人になった途端、またポトリとため息が口から零れ落ちる。
――俺が、今までどれだけ努力して……。
思っても栓ないことを脳内で繰り返す度に、どんよりと心が曇る。
舌打ちでもしたい気分だ。
アカデミーにしろ受付にしろ、広く里の忍たちと顔を合わせる仕事だ。
決して狭くはないが密なコミュニティの中で、惚れたの腫れたのとゴタゴタするのは御免だった。
だからイルカは慎重に慎重に、身の回りに防衛線を引いてきたのに。
里にとって初めてのバレンタインディ。
背中を押す切っ掛けがあれば、いとも容易くその壁が破られてしまうのだとイルカは嫌と言うほど思い知らされた。
久々に顔を見せた同級生やその連れ。
アカデミー生の親から紹介を受けたという、親類縁者を名乗る人々。
受付でよくイルカの列に並ぶ忍達。
そして職場の同僚の友達。
次から次に舞い込むイルカを呼び出す式に、スケジュールを調整するだけで精いっぱいだった。
イルカの前に積み上げられるのは値段や大きさの差こそあれ、すべてが気持ちの籠った本命チョコで。
――……重い。
まるで今までの負債が利子つきで返ってきたかのような煌びやかな箱の山を、イルカはどんよりと見つめた。
「まあ、お前は安全牌だからな。給料定額制だし、子供の扱いにも長けてるし、ほとんど任務に出ずに里に居るから死ぬ確率も少ないし。二目と見られないほど醜くもないし、極端に太っても痩せてもいないし。なにより――人畜無害そうだしな」
と笑う同僚の評価は的を射ていて、イルカは笑うことすらできなかった。
是非もない。
周囲からそういう風に見えるよう、自分を仕立ててきたのは自分なのだから。
真面目でお人好し、だけど面白味がなく、付き合うには刺激が足りない。
恋愛対象にならないイイヒトであろうとしたそれがまさか、結婚適齢期に突然のモテ期を運んでこようとは思わなかったのだ。
「ま、お前もいい歳だし、中から誰か選んでお付き合いしてみればいいんじゃねぇの?」
からかい交じりの同僚に、イルカはようやく力なく笑い返した。
――いらないんだよ、そういうのは。
独りでいい。
いや、独りがいい。
特別なものなんていらない。今がずっと続いてくれれば、それで十分だ。
平穏な生活を守る為、まずは角の立たない断り文句を考えなければならない。
イルカは暗澹たる気分で、プレゼントボックスの山に目を遣った。
散々だったバレンタイン初年度の記憶を脳裏に浮かべながら、アカデミー裏に辿り着く。
そこでイルカを待っていたのは、最近よく目が合うな、と感じていた下忍の女性だった。
「わ、私と是非、結婚を前提としたお付き合いを!」
必死の形相で彼女が差し出した箱を、イルカはやんわりと押し返す。
チョコレートは最初から受け取らないことにした。その方が断りやすいし、お返し用の出費だって抑えられる。
あれから三年経って、イルカもそれなりの対処法は編み出しているのだ。
「お気持ちは嬉しいんですが、……ごめんなさい」
眉を下げ、困ったような表情を作って彼女に笑いかける。
大体の相手は、ここでイルカの顔から勝手に何かを読み取って、引く。
「な、なんでダメなんですか!? お付き合いしてる方、居ないんですよね?」
だが時々こうして、引かない手合いがいる。
面倒だな、と表情に乗せないまま、イルカは心の中で眉を顰める。
ダメなもんはダメなんだと言ってしまえたら、どれだけ楽だろう。
だが彼女とは、これから先も受付で顔を合わせるのだ。なんとか丸く収めなければ。
「……俺、好きな人がいるんです」
そういう場合は、これが一番効く。
だがそれでも。
「そ、その人より好きになって貰えるように努力します! ……私、うみのさんの好みの女性になれるように頑張りますから!」
引かない人間は、一定数居る。
お試しだけでもと更に箱を手に押し込んでくる女の、九十度に下げられたままの頭頂部。
それを見る目に一瞬乗ってしまった煩わしさを、気づかれぬようイルカはするりと押し隠した。
もううんざりだ面倒臭ぇと叫ぶ心にも蓋をする。
「すみません、無理です。誰も代わりになれないんです。――その人は」
死んだのだ、とイルカは続けようとした。
もういない彼女への想いに一生殉ずるつもりなのだ、と言えば、大なり小なり身近な者の死を経験している木の葉の人間なら、百パーセント間違いなく身を引く。
だが。
ひゅ、と風が走る音と共に、身体が浮いた。
「イルカせんせ、やっと見つけた」
ぽかん、と下忍の彼女が、木の上のイルカとカカシを見上げている。
「……なん、ですか?」
思考が追い付かないまま瞬いたイルカに、カカシが至近距離で苦笑を浮かべる。
「アナタがあんまり捕まらないから、攫いに来ました」
「は?」
「アナタ今日、随分あっちこっち飛び回ってるんだーね」
無駄足なのに、と切り捨てるような言い草が、ぐさりとイルカの胸に刺さる。
イルカをアカデミーの樹上に軽々と運搬した上忍は、未だに足元でこちらを見上げる女に向かって、野良犬でも追い払うようにしっしと手を振る。
「アンタはきっぱり振られたんデショ。もうおウチに帰りなさい」
「そ、そんな。うみのさんはそんなこと」
「無理、……ってこれ以上ない断り文句だと思うけど。それともアンタ、イルカ先生から罵倒されたいの? ――無理。イヤ。しつこい。面倒臭い。これだけやんわり断ってるんだから、いい加減空気読め。マジ有り得ない」
カカシが言葉を重ねるたびに、木の下に佇む女の目に涙が盛り上がる。
イルカの心中をそのまま代弁する声が彼女の顔を歪ませるごとに、胸の奥にじくじくした痛みが蓄積していく。
――傷つけたいわけじゃないのに。だから俺は、ちゃんと、遠回しに断ってるのに。
カカシの言葉に傷つきゆく彼女に、ざまあみろ、と思う心を止められない。
ここまで言わせるアンタが悪いんだ、と相手を責める気持ちを消すことができない。
イルカが言いたくても言えなかったことを易々と口にするカカシに爽快を感じてしまう自分が――堪らなく嫌だ。
チッと小さくカカシが舌打ちした。
「――そんな優しさ、たかが上っ面の顔見知り程度が期待するんじゃなーいよ」
低い低い声で言い捨てて、カカシが女を睥睨する。
予想外の言葉に、イルカは呆然と目を見開いた。
――優しさ? 優しさって言ったか、今。
ぎゅっと抱き寄せられた腕の温もりに、胸の痛みが和らぐような気がして息を飲む。
「チョット本気出されたくらいで泣くような中途半端な覚悟で、――これ以上、この人に付け込まないで」
カカシの言葉に横面を叩かれたような表情を浮かべた女は、逃げるようにくるりと踵を返して走り去る。
ふん、と満足げに鼻を鳴らしたカカシに瞬身を切られ、イルカの足元がまたくらりと揺れた。
目の前に突然、木の葉の里の風景が広がる。
二人が現れたのは火影岩の上だ。しかもこの位置は……三代目、猿飛ヒルゼンの顔岩だろう。
かなりの高低差を移動したにも関わらず、あまり浮遊感が無かったのは、カカシの術の精度のお蔭だろう。
見せつけられた高い技能に、内心イルカは舌を巻く。
「あの」
ところで。
「何か御用ですか?」
有無を言わさず自分をここに連れてきた上忍を伺うが、ほとんど布で隠れた表情はいつも通り飄々としていて、感情の取っ掛かりすら掴めない。
「俺、次の予定があるんですけど……」
胸ポケットからスケジュール帳を取り出そうとしたイルカの手を、カカシの右手が掴み止める。
「行かなくていーよ」
「は?」
「だって、どうせアナタ断りに行くんデショ? なら一番わかりやすいのは、約束をすっぽかすことですヨ」
「でも、そんな訳には」
「連絡なしでドタキャンするのが気に入らないなら、暗部の後輩でも伝書鳩代わりに走らせマスよ。だから――ね、もうイイの」
胸元から上がってきたカカシの手が、イルカの輪郭をなぞるように頬を滑った。
妙に優しい指先に、ぞわぞわと背を悪寒が這い上がる。
「行かないで」
「――……っ」
命ずるような低い声に、思わず身体が硬直した。
こくり、と固唾を飲んで、イルカはその強張りを解そうとした。
「……あの」
「用事。うん、用事ね」
ひたり、ともう片方の手もイルカの頬に添え、カカシがイルカを覗き込む。
カカシの嵌めた手甲の皮は冷え切って、薄氷でも押し付けられたように肌を刺す。
――怖い。
初めて、イルカはカカシを怖いと思った。
中忍選抜試験前の会議でカカシと相対した時も、こんな恐ろしさは無かったのに。
戦忍をしていた頃ならいざ知らず、木の葉の里内ではついぞ感じたことのない――魂に爪を立てられたような、骨髄を深々と冷やすような原始的な恐怖に、本能が早く逃げろと警鐘を鳴らす。
身を引こうとしたイルカより一瞬早く、カカシの掌がぐっとイルカの顔を固定した。
こちらをぬるりと覗き込むカカシの顔の中で、見えているのは青黒い片目だけ。
凪いで、冷えて、まるでガラス玉のように硬質なその瞳の表面に、怯えた表情の自分が映り込んでいる。
「こんな日に、血眼になってアナタを探してる理由なんて、一つしかないデショ? 愛を告白しに来たんデスよ」
びょう、と二人の間を凍った風が行き過ぎた。
――アンタもか。
落胆に、イルカの肩がガクリと落ちる。
いつも受付で優しく迎えてくれる笑顔が好きだ。癒される。一緒に居て欲しい。
チョコを片手に照れながら、そんな言葉でイルカを口説きに掛かってきた男の戦忍も、今まで幾人か相手にしてきた。
下らない。
――アンタだけは、違うと思ってたのに。
所詮ナルトを通じて言葉を交わすだけの間柄だ。会議での諍いの後は、雑談すらしなくなって久しい。
そんなカカシのことを――この人だけは他の人とは違うのだと、どこかで信じ込んでいたらしい。
――馬鹿だな。俺がカカシさんの何を知ってるっていうんだ。
そしてカカシもイルカのことを何一つ知らないのだ。だからこんな馬鹿なことを言いだす。
「その、お気持ちは嬉しいんですが」
「嘘」
「俺、他に好きな人が」
「嘘」
「――……亡くなった彼女への想いに殉じようと思って」
「はい、それも嘘」
ワンパターンだね、とカカシが肩を竦める。
「告白されたって、アナタちっとも嬉しそうじゃないじゃない。仕事に個人的な感情持ち込まれるの、正直迷惑なんでしょう? なーにが、お気持ちは嬉しいんですが、ヨ」
呆れたように白い息を吐き出しながら、カカシがすうと目を細めた。
蔑みを隠しもしない眼差しに、頭にかっと血が上る。
「……っ! 仕方、ないじゃないですかっ!」
――他にどうしろって言うんだ!
対応が平等になるよう、なるべく色を滲ませないよう、相手に恋心を抱かせないようにイルカだって日々気を張って頑張っているのだ。
なのに寄ってくる。わらわらと寄ってくる。
ただ暖かい子供たちからの好意とは種類の違う、どろりとした欲を滲ませて。
癒されたいと。優しくしてほしいと。
どいつもこいつも幸せを求めて、都合よくイルカを毟ろうとするのだ。
――同じものをくれるなら、俺じゃなくても良い癖に。
駄菓子でも買うように、気軽に手を伸ばされては堪らない。
怒りを込めてぎりりと睨みつけると、何故かカカシはふ、と表情を緩めた。
目尻がとろりと溶けて、山の端のようななだらかな稜線を形作る。
「その顔、――……イイね」
イルカの耳元に寄せられた唇から、濃度の高い蜜の様なカカシの声が這入りこむ。
きいん、と頭のてっぺんが割れるように痛んだ。
煮詰まったそれは甘さを通り越して、もはや只の刺激だ。
「好きな人も居ないデショ。だって――」
すっと身を寄せてきた男が、イルカの首筋ですんと鼻を鳴らした。
僅かな空気の動きすら、張りつめた身体は敏感に拾ってしまう。
「アナタから、恋してる匂いなんて、ひとつもしない」
びりびりと脳が痺れる。
詰まった息が喉元で絡まって、イルカの肺を押さえつけた。
「匂いで、なんて……っ」
「わかるよ。――オレは、アナタが好きだから」
断ずる声に、心が悲鳴を上げる。
わからない癖に。知らない癖に。
――だから呑気に俺のこと、好きだとか言えるんだ……っ
どん、と背中に土壁が当たった。
知らず知らずに気圧されて、下がってしまっていたらしい。
壁際にイルカを追い詰めた上忍は、イルカから手を離すと、――すう、と指先で己の口布を引き下げた。
恐ろしく通った鼻筋と、形の良い唇が露わになる。
「オレを振る気なら、そんな言い訳じゃなくて、――アナタの本音で拒みなさいよ」
言葉を紡ぐたびに、カカシの口元の黒子がひらひらと動く。
「本気で拒絶して、本音で罵倒して、立ち直れなくなるまで打ちのめして。じゃなきゃ、オレは止まりませんからね?」
嬉しそうに、楽しそうに、カカシの唇が鋭角に吊り上がる。
胴がぶるりと震えた。
目を逸らしたいのに、視線をカカシから引き剥がすことが出来ない。
まるで性質の悪い術にでも掛ったかのようだ。
「アナタが一生隠しておきたい汚い部分を余す所無く曝け出して、心に浮かんだ口にするのも悍ましいほど酷い言葉を残らず全部吐き出して」
この唇で、とカカシの冷えた指先が、つうとイルカの薄い皮膚をなぞった。
「オレのためだけに血を流してよ、イルカ先生。――どうせ振られるなら、オレはアナタに一生消えない傷を刻みたい」
イルカは絶句した。
――そんな優しさ、たかが上っ面の顔見知り程度が期待するんじゃなーいよ。
先ほどのカカシの言葉が、脳裏に蘇る。
「……っ」
がくがくと膝が笑いだす。
我知らずぶるぶると首を横に振ったイルカを閉じ込めるように、顔の両脇にカカシがどんと手をついた。
「これ以上アナタが、アナタの上っ面しか見てない連中の為に磨り減るのは耐えられないの。――もう一ミリだって、ううん、アナタの心の削りカスすら他の奴らに渡したくない」
「……なに、言って……」
「どうでもいい相手の為にわざわざ心砕いて、時間費やして、無駄足踏んで。アナタ、ホント馬鹿だーね」
あんな奴らほっとけばいいのに、と、カカシが唇を吊り上げて嗤う。
息が苦しい。
「きちんと恋心を終わらせて、だけど悪い思い出にならないように気を遣って、次の恋に踏み出せるように勇気まで添えて。アナタにそこまでしなきゃいけない義理はどこにもないのに、――ねえ」
ぐっとカカシがイルカに身を寄せる。
カカシの影にすっぽり包まれて、イルカの周囲が急に薄暗くなる。
「――そんなに誰かに嫌われるのが怖い?」
獲物を甚振るような声に、じわりと目じりが潤んだ。
喉奥に詰まった息が、今度はしゃっくりのように振動し始める。
揺れるイルカの喉元に、カカシの白い指がそっと触れた。――まるでよく研いだ苦無の切っ先を突きつけるように。
怖い。
怖い。
身体が小刻みに震えはじめた。
きんと冷えた二月の空気が、イルカをがちりと凍てつかせる。
「イルカせんせ、アナタはみんなからイイヒトだと思われたい癖に、それ以上の好意を持たれるのを頑なに拒んでる。波風を立てないよう、目立たないよう、ひたすら中庸であろうとしてる。嫌われたくないから。捨てられたくないから。一人になりたくないから。――そうデショ?」
ひう、と震えた喉から嗚咽が零れ出して、イルカの口元を白く覆った。
色を無くしたイルカの顔を、この上なく嬉しそうに笑うカカシがうっとりと眺めている。
「愛だの恋だのそんな甘っちょろいモノ、アナタはひとつも信じていない。だって恋には終わりがあるから、愛には別れがあるから。だからアナタは特別なものを持たないことに決めた。一度手に入れたものが自分から離れていくなんて、許せないから。――そうデショ?」
カカシは暴かれたくないイルカの心の澱を、丁寧に一つづつ並べてイルカの鼻先に突き付ける。
そしてその魚の腑のような悪臭をむしろ極上のごちそうだと言わんばかりに、愉悦を顔に浮かべて舌なめずりをしてみせる。
ぞっと背筋に震えが走り、ぐらりとイルカの足場が揺らいだ。
「アナタは矮小で卑怯な臆病者だ。――ねえ、そうデショ?」
「……な、んで……」
そんな酷いことを言うのだ。イルカを好きだと言ったその口で。
まるでイルカを甚振るのが至上の喜びですと言わんばかりに嗤って。
交錯する感情は、怒りも悲しみも憤りも全て綯交ぜのまま心の中で渦を巻く。
立ち直れないほど打ちのめしてと甘い声でイルカに強請っておいて、滅多打ちにされたのはイルカの方だ。
思わず下唇を噛み締める。嗚咽が口先で詰まって、ふぐう、と変な音を立てた。
イルカの様子に、にい、とカカシが唇を吊り上げる。
「――オレは、そんなアナタが欲しくて欲しくて堪らないの」
「……は?」
わんわんとカカシの声が、耳鳴りと混ざり合って脳内で反響する。
聞き間違いかと首を傾げたイルカに、カカシが更に畳み掛ける。
「優しくて暖かくて癒される、――なんて、そんな上っ面だけの甘ーいアナタは要らないの。だってアナタ、ホントはギラついてて、切羽詰まってて、欲しがりで我儘で傍若無人で、……かなり強烈なヒトだよネ」
くつくつと肩を揺らしてカカシが嗤う。
「永遠が手に入らないならいっそ何も要らない、なんて。――潔いを通り越してむしろ傲慢だーよ」
羞恥に頬が染まる。
好きだと言う割に、先ほどからカカシの口から出てくるのはイルカを蔑む言葉ばかりだ。
なのに。――胸の奥からほこほこと沸くこれは、歓喜、ではないだろうか。
ぞくっと背を走った震えは、苦みの奥にごく幽かな官能を孕んでいる気がした。
――怖い。
くらくらと足場が揺れる。
脳が警鐘を鳴らし、本能が逃げろ逃げろと告げている。
「……逃がしませんヨ?」
カカシが軽く、己の額当てを引き上げた。
覗いた瞳の赤に、びくりと心が畏縮する。
写輪眼を使えばイルカの身体の自由を奪うことなど、朝飯前だと言いたいのだろうか。
「……困ったな。せんせ、アナタ――……怯えた顔もかわいーね」
今や隠されている部分が零になったカカシの素顔が、至近距離からイルカを覗き込んでいる。
その整った顔の造作に初めて気づいて、うっかりイルカは目を奪われた。
こくり、とイルカの喉仏が上下したのと、カカシの唇がイルカのそれに重なったのは、ほぼ同時だった。
薄く冷たそうに見えたカカシの唇は予想に反して暖かく、しっとりと滑らかな口解けでとろりとイルカの心を押し包む。
するりと離れた唇の表面を、二月の空気がきんと冷やして。
「……あ……」
名残惜しさに身が震え、――己の気持ちの急激な変化に、イルカは呆然と立ち尽くした。
――……今、俺、何考えて……っ
かああああっと一瞬で朱に染まったイルカの耳元で、嬉しそうにカカシが喉を鳴らす。
「ねえ、イルカせんせ。アナタをオレに頂戴?」
「……そこは普通、付き合って下さいとか言うところじゃ」
――って、何言ってんだ俺!
「んー、まあ、それも間違いじゃナイんだケド」
でもねぇ、と己の発言に思わず顔を伏せたイルカの頭の向こうで、カカシの声がくつくつと揺れる。
「オレはアナタの寂しさに付け込んで心に這入りこんで、アナタの中に空いた穴全てにオレを流し込んで、満たして、でろっでろに甘やかして、オレ無しじゃ生きていけないくらい芯まで蕩かしてやりたいの」
「……ろくでもねぇ……」
「孤独拗らせてるアナタにはお似合いデショ」
とんでもない発言に思わず顔を上げたイルカの目の先で、カカシが小首を傾げてさらりと笑った。
くすぐったそうな、照れくさそうな、妙に爽やかなその笑顔に不覚にも胸がどきりと跳ねる。
「ねぇ、せんせ」
言いながら、カカシが胸ポケットからひらりと板チョコを取り出す。
飾り気も何もない、店売りそのままの、無骨なビターチョコレート。
「アナタをオレに明け渡してよ。頭の先からつま先まで、……隙間も残らないくらい、オレで満たしてあげるから」
指先で器用に包み紙を破り捨て、カカシがぱくりとそれを咥えた。
限りなく黒に近い色味のチョコレートを、口の端でぱきりと折り取る。
瞬間、濃密なカカオの気配が香り立ち、イルカの脳をくらりと揺らした。
「嫌なら本気で拒んで。拒まないなら、――オレごと全部飲みこんで」
言いながら、親鳥が雛に餌でも与えるように、カカシがイルカに顔を寄せた。
チョコを咥えたままひらひらと器用に動くその端正な口元から、薄く淡く白い煙が棚引いている。
先程の余韻が不意に蘇り、じくじくと唇が疼いた。
腫れぼったく熱を持ったそこを思わず舌先で舐めると、カカシがご馳走を前に喉を鳴らすネコのようにニンマリと微笑んだ。
ぞくりと背を走った震えはもう、痺れるほど甘い。
目の前でイルカを待つその唇にはきっと、甘さなんて少しも含まれていないのに。
いつかの会議の壇上で、イルカをすぱりと切り捨てたように。
今日、散々イルカを蔑み弄んだように。
きっとイルカを待っているのは、抜けるような苦みと、傷に沁み入る酸味だけ。
それでも、とろりと蕩ける濃厚な舌触りと、口の中に長く深い余韻を残すその薫香を、――イルカはもう知ってしまった。
「さあ、どうする――イルカせんせ?」
こくり、と一度、呼吸を飲みこんで。
誘われるようにイルカは、差し出された焦げ茶色の塊に唇を寄せた。
終
Q.
ところで、何で火影岩だったんですか?
A.
「このヒトが誰のものか、里の皆に見せつけてやろうと思いマシタ!」
「…………っ!! アンタ、さては馬鹿だな!?」
※拍手は2月いっぱいまで撤去しましたありがとうございました。
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